日本の眼・15    いき

「日本の眼」をたどる長い旅の中で、決して避けては通れない美意識、「いき」。それは抽象的な概念というよりも、本来は目の前で、生きて、動いて、立ち振る舞う、具体性から生まれた言葉だったのではないだろうか。

「粋(すい)」の反対は、「無粋」である。では「いき」の反対は?
そう、「野暮」である。どこかあか抜けない人、世間や人情に通じていない未熟さ、人の立場に立てない利己主義は、みんな「野暮」である。

自然なおしゃれが身についた人、世間や人情に通じた経験豊かな大人、相手の立場に立ってさりげなく思いやりをかけられる人。つまり人の世にさらされ、酸も甘いもかみわけて、さっぱりと洗練されていること。それが、「いき」の必要条件だと言えるだろう。

大正から昭和の初め、哲学者の九鬼周造は消えつつあったこの「いき」の灯火を、ぎりぎりのところで書き留めてくれた。その著作『「いき」の構造』で、九鬼は「いき」をシンプルにこう定義している。
「垢抜けして、張りのある、色っぽさ」

さて、「いき」の意味はひとまず明らかになった。けれどそれを昔のまま体現できる人はまずいないだろう。いつしかそれは失われてしまった。
そして周りに目指すべき人がいない限り、誰もそれを真似て引き継ぐことは出来ない。